【無料お試し読み】 大前研一氏の処女作「悪魔のサイクル」(2013年新装版)

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※書籍版は下記リンクよりご覧ください。

これまで絶版本になっていた大前氏の処女作であり、出版の原点。

新たな文章を追加収録のうえ、デジタルリマスタリング。

日本人が意識の根底に持つ他者へのよりかかり的思考の概念が、なぜ形成されているのかを説く。


『大前研一氏の処女作「悪魔のサイクル」(2013年新装版)』1章より


規則の中の不思議な住人

 それは、太平洋を望む鉄筋五階建て独身寮の食堂の壁に、まるで蜘蛛(くも)の巣のようにへばりついていた。まことにありふれた寮規則であった。

 当時の私をふり返ってみると、暗夜の道をとぼとぼと歩いている迷い児(ご)のようであった。今でもその当時のことを想(おも)い起すにはある感慨を伴わずにはおれないほどである。さて、ある朝のことだった。暗く閉ざされた私の心に一条の光りが射(さ)し込んでくるのだった。丁度二十七歳のときのことである。

 目下私は、ある欧米系の会社で経営管理コンサルタントの仕事にたずさわっている。つい最近まで、原子炉技師の資格である電器メーカーにいたのだが、「やむをえぬ」事情からやめてしまった。この会社、規模とか売り上げの面からいうとわが国屈指のマンモス企業と言えるかもしれない。そこにいた数年間、私は満たされぬ心の渇きをどこに求めていたのだろう。日ごとにつのる不快感をどこに捨てようとしていたのだろう。いやいやそうではなかったはずだ。不快感に心はひどくいたぶられ、平静ではおれなかったはずである。こんなことを言うと、あまりにも個人的にすぎるかもしれない。しかしながら、私は思うのである。この個人的な不満の根源は、もしかしたらもっと根深いところに潜んでいるのではあるまいか。もっと普遍的なことがらに属するのではないか。わが国の今日的な問題と無縁ではないのではないか。

「だれしも思いはきみと同じさ。格別きみだけが辛(つら)いという理由はないはずだ。思い上りも甚(はなはだ)しい」

 と謗(そし)る声もあった。

 しかし、同じ理由で悩んでいる人間がいると言うのなら、これは由々しい問題ではないのか。この問題から逃げ出すには自分はあまりにも深入りしすぎた、と思う。そこで私は自分にこう言いきかせた。「リンゴの実を食べたものは、もう後に一歩も引けない」。

 かくて私は、会社における数年間から次のような結論を抽(ひ)き出すことができた。問題とは「よりかかり」の思想であったと。この日本人の「よりかかり」の性格をとき明かすためには、日本人の共属心理について今一歩立ち入って分析してみなければならぬ、という確信に到達した。

「生きてゆくのが恥ずかしいという苦しみ」と言った人がいる。作家の武田泰淳(たけだたいじゆん)氏である。昔の私なら、氏の言うこのような気分に自分をなぞらえてみたいという気負いもあったかもしれない。だが、今の自分には、ない。気負いはそれとしておいても、このような気分が今の時代の上に漂っていないとは、だれが断言できようか。では「恥ずかしい」という気分はどこからやって来るのだろう。

 電器メーカーに入社して間もない日のことであった。私は工場を中心に拡(ひろ)がった、小さな街なみの小高い丘の上の独身寮に入った。忘れもしないが、この街に初めてやって来たときのことだった。「不思議な街だ」という印象が、私を捉(とら)えたのである。アパートらしいものは、どこを探したってない。東京や大阪の人間には、この気持を理解してもらえるだろうか。暫(しばら)くしてからわかったが、なにぶん一万人にもおよぶ従業員の面倒を、工場の人事部がみていたからであった。

 入寮してから四カ月たったある寒い朝のことだった。今までボンヤリと看過(みすご)していた食堂の壁に、ふと目を遣(や)った私はアッと声を上げた。

「こいつだな」

 あの不快感の寄ってくる根を見たような気がしたのである。

 その一件があってから、私は規則ずくめの気分におかれた共属組織の本質を見たような気がして、以後この件について意識的に頭をめぐらす羽目になったのである。根深い不快感の根源が意識にのぼってくる端初のようなものが、「実はこれではないのか」と、私は直感した。この記念すべき第一歩――寮規則に敬意を払うため、読者には少々退屈かと思われるが、私はここに敢(あ)えてそれを原文のまま掲載しておこう。

「暖房使用規則」

 一、一室一名の火元責任者を決め、各部屋入口に明確に電気器具登録許可と共に表示する。又責任者氏名を管理人に届出る。

 一、三〇〇Wのヒーターを火鉢(ひばち)の中に入れて使用する。反射コタツを登録制により許可する。両者の併用は認めない。

 一、使用電力量一部屋当り七〇〇W以下とする。

 一、暖房使用期間は3/31まで、退勤後から就寝までとする。アンカは例外である。以上定められた以外の時間に使用する場合は住宅課の許可を得る。

 一、出勤前には使用しない。

 一、一ケ口コンセントに二ケ以上のタップをつけない。二ケ以上のついている卓上タップには封印するのでその封印をはずすときには管理人、及び委員会の許可をうける。

 一、外出の際ヒーター、吸がら入れはかならず廊下に出す。

 一、吸がら入れは直径10㎝以上のものにして、鉄製、陶製のものに常に水を入れて使う。歩行中喫煙しない。スイッチを入れたまま隣室などには行かない。委員会は夜警を実施する。

 一、週一回以上封印の点検をする。管理人は午前中一回、午後一回室内を点検する。

 一、以上の規則に違反した場合は器具の没収又は退寮を勧告。

 さてこれはたいへん、と思ってひょいとあたりを見回すと、ある、ある。この種の規則は実にある。玄関口にもあった。

「外来者に告ぐ」

 一、当寮、寮員の父母兄弟以外の者は無断出入厳禁。

 一、外来者及び他寮員共に記帳の上管理人の許可を受ける。

 一、外来者門限の厳守。午後十時まで(社則)。

 きくと、「この程度の規則ならどこにだってあるさ」と言う。よくそういってすませられるものだ。私には実際苦痛だった。第一、気分が悪い。思いきって寮の古株の男にたずねてみた。案の定予想に違(たが)わぬ返事を頂戴(ちようだい)した。

「なに心配ご無用。守ってるバカがいるかい」

 愚かな質問をするヤツだ、とでもいった顔つきで彼は私のほうを見た。

「ならばこんな規則よしてしまえばよいのに」と言いかけて黙ってしまった。人事部が人事部なら、従業員も従業員だ。なにかしらやるせない気がしてならなかった。「やるせない」と言うと、理屈では到底説明のつかないことも、あった。

 人サマに「倒れても安全な石油ストーブ」を売りつけ、「スイッチを止め忘れても、高温になると自動的に止まる電器ストーブ」をヤッキになって宣伝している企業が、こともあろうに自社員にむかってその器具そのものの使用を「火災上の理由」から固く禁じているのであった。ブラックユーモアと笑ってすませるうちはよい。こんな流儀がトップクラスの会社で堂々とまかり通っていること自体、問題だとは思わない不思議な人種も、いるものだ。企業の窓を通して社会を覗(のぞ)いている人種には、それも道理かもしれない。もしそれが不思議と気づいても、「ひょっとして不思議に思う自分の精神のほうがおかしいのかも」という気分に駆られるから妙なものだ、といった類(たぐ)いの話なら、どこの企業にも一つや二つは必ずある。そんなわけで、私は以後、この流儀を「悪魔のサイクル」と秘(ひそ)かに呼ぶことにした。

 ともあれ、寮規則に端を発した私の疑惑は、私をして日本人の「よりかかり」の性格をトコトン解明せしめるバネになったと確信している。思えば、私の人生コースを決定したのはどうやらアメリカでの留学体験の中に、あるいはまた、そこで原子炉の勉強をすることになった動機の中に潜んでいたようだ。


旅立ち

 私は、原子力工学という比較的新しい学問を東京工業大学の大学院修士課程で二年間学び引き続き三年間の博士課程に進んだ。そして今では幻の原子炉となった、溶融塩炉と呼ばれる新型炉の研究に取り組んだ。

 そのうち日本の大学院教育、ことに原子力にかんする教育に次第に疑問が芽生えてきた。原子力というと、戦後派工学のひとつであるせいか教授にしろ助教授にしろ、いわゆる専門家が不在であった。折もおり、国家の要請から大学に「原子力工学科」というセクションが新設され、将来のエネルギー資源の開発に備える下準備が始まった。原子炉の設置・開発関係のエキスパートの養成が、目下の急務となった。あるときは他(ほか)の専門領域で原子力にかかわる仕事に携わっていた人、またあるときは本人の希望、またあるときは余分の人等々、といった人間の中から、相応(ふさわ)しいと思われる人材が大量にかき集められた。

 この辺まではあの第二次大戦中の「マンハッタン計画」とさしたる違いは、なかった。しかし、「マンハッタン計画」に従事した人びとは良し悪(あ)しはさておいても、「原爆を他国に先がけて緊急に製造しなければならぬ」という強い使命感と、旺盛(おうせい)な目的意識があった。しかるにどうだろう。雑然とかき集められたわが国の原子力関係の先生がたは、「原子力工学」教育の目的を各自勝手にきめ込んでバラバラに取り組んでいたのである。

 ある教授は原子「力」を原子「核」にまで拡大して、原子炉とは縁もゆかりもない、たとえば、核物理分子構造というこれまで通りの研究を学生に押しつけた。そればかりか原子炉を利用して電気や熱をつくり出す、肝心の原子炉については、新しい知識をまるで学ぼうともしないようだった。別のある教授にいたっては言語道断だった。

「原子炉のような得体(えたい)の知れぬものを相手にしていたら、就職先が狭くなる」

 と的はずれの親心を発揮して、もっぱらツブシのきく工学一般の知識の修得を推奨する有様だったからである。

 正直言って私は、これにはたいへん閉口した。それではというので、原子力工学関係の講座がある他の大学、東大と京大についても秘かに調査してみたが、やはり事情は同じであった。

 わが国の大学院教育の最大の欠点は、院生が教授の徒弟としていわば親分子分の関係を強(し)いられる点にある、ということを身をもって知ったからである。第一、自分の能力や好みに合った講座の選択の自由は、極端に制限されていた。師を「敬う」ということと、師が「ただ単に師であるという理由で敬わなくてはならぬ」ということの間には、少くとも私自身の心の中には大きな隔りがあった。早い話が、クルマがガソリンスタンドに立ち寄るのは水を補給するためではない。ところが、日本でもっとも権威ある原子力関係の三つの大学院では、まさにこの「水」の押し売りをやっていたのである。

 マヌケた講義に対して院生から文句ひとつ出ないのは、いかなるわけからだろう。彼ら院生に水とガソリンの区別がつかないからだろうか。それとも大学教授の地位とか権威とかが大きくなりすぎた結果、彼ら自身、ガソリンとは何かを銘々勝手に定義できる境遇にのし上ってしまったからだろうか。あるいはまた極く少数ではあるが、良質のガソリンを本当に売っている先生もいるからだろうか。

 かく言う私はどうかというと、まことにナイーブな純ガソリン追求派の一学徒であった。

 私は当時、大学で化学を学び、石油化学万能の時代の洗礼を受けた一介の学生にすぎなかった。たまたま大学祭でポスター書きのネタ探しに奔走していたときのことだった。パトナム著『エネルギー問題の将来』という報告書を手に入れたのである。そのときはほんとうに目からウロコが落ちる思いがしたものである。

「石油資源はこれから先五十年ともたないだろう。しかも三十年もすると、その涸渇(こかつ)が予想され石油の値上りも起り、エネルギーそのものの値段は刻々と高騰(こうとう)していくであろう」

 私はショックだった。また次のパラフレーズは自分の信念を根底から揺さぶった。

「石油は複雑な高分子化合物だが、これを燃すと炭酸ガスと水に分解してしまう。燃される石油の分量は全石油消費量の実に九十五パーセント以上である」

 パトナム説では、石油を木や水から合成することはほとんど不可能に近い、ということだった。とすると、石油は燃さずに化学工業の材料に用い、エネルギー資源は石油以外のものを求めるのが賢明なやり方であろう。私はそう考えた。ここに言う「石油以外のエネルギー資源」とは、言うまでもなく「原子力」のことである。

 かくて私は、はっきりとした目的意識をもって大学院に進学したわけである。ガソリンのかわりに水をもらったのでは到底承服できかねるという理由も、ここに潜んでいたと言わなければならない。専門家の目には、子供っぽい気負いのように映るかもしれない。しかし、ここには当時の私の覚悟のようなものがある。列記してみよう。

 一、原子力の勉強をして、安いエネルギー資源を日本に確保する。

 一、石油は燃さずに石油合成化学の原料として生かす。

 一、長期の需要にたえうる燃料が、簡単に貯蔵できる原子力を国内産業として確立する。そうしておくと、たとえ石油がピンチになっても、かつてのように軍事力に依存しないですむからである。

 原子力工学を習得したい欲望がつのる一方の私には、そんなわけで緊急に動員された先生たちの授業のやり口が、まるで四角い車輪の人力車を引くように思われて仕方がなかったことをついでに告白しておこう。

 そんな折、ふとしたきっかけから思わぬチャンスがころがり込んできた。マサチューセッツ工科大学(MIT)に入学願書を出すことになったのである。入学希望理由にさきほどの、あの三力条を明記しておいたことはいうまでもない。もちろん日本にだけ通用するような文句は、適当に「国際的」に焼き直しておいた。カネは一文もなかったので全額奨学金の必要な旨(むね)を訴え、ついでに「自分はきわめて優秀だ」とも付け加えておいた。

 後日、入学審査委員長と話をしたときにわかったことだが、MITの願書にはこのような自己宣伝のものが多い、ということであった。ことにインド人のものは、全員天才かと思えるほど誇大に書かれてあるそうだ。そのため国別に、また学校別に「割引率」も用意してある、と委員長は話していた。さいわい日本人は謙虚であると見えて、このような手合いは少く「割引率」もそれほど高くはない、とのことであった。私のはったりも結構素直に受け取られたようである。

 まもなくMITから入学許可証が送られてきた。数日してから「全額奨学金を出す」という手紙も届いた。「渡航試験のような英語の試験を受けてくれ。結果しだいでクラス分けを考える」とも言ってきた。しかし、大学一年のころから観光ガイド(通訳案内業)をやっていたので、英語には自信があった。だから、これまた図々(ずうずう)しく、「自分の英語力はわが国運輸省の保証つきだ」と応(こた)えておいて、「面倒くさくてカネのかかるテストは不要であろう」とにおわせておいた。

 数週間もしたであろうか。「貴殿に対してわが審査委員会は英語の力ありと認めたことを喜んで報告できる」といった格式張った手紙をもらい、入学手続きいっさいが完了した。あとで何回も触れる機会もあるが、この学校の融通性は規則に馴染(なじ)んだわれわれ日本人にとっては驚くべきものがある。かくして私は、数回の手紙のやりとりで、ことごとくわが意思を押し通して意気揚々とボストン入りした。


戦われなかった決闘

「みんなの期待に背(そむ)けぬ」という張りつめた気分も手伝ってか、私は並みのアメリカ人学生よりも遥(はる)かに堅物だったと思う。あいにくルームメイトのアルバートは、万事が私とは対照的な人物だった。

 アルバートは平日、週末を問わず近くの女子大生のガールフレンドを私たちの部屋に連れ込んでは、夕方から夜にかけて遊ぶのだった。椅子(いす)にかけて話し合うというのではない。第一、そんな上品なものではなかった。上半身丸裸。女とベッドに寝そべって愉(たの)しそうに社会心理学の話に耽(ふけ)っている。私はどうしてよいのかわからないから、つい本とノートを持って図書館に出かける。憤懣(ふんまん)やるかたない思いで真夜中の零時ごろ、テクテク帰室する。

 むろん女は消えている。アルバートは机にむかって勉強中だ。明け方彼は、床に就くのだ。私が授業に出かける九時ちょっと前、彼は丁度白河夜舟といった有様だ。

 こんなことが毎日くり返されていた。そのうち内がわからカギのかかっている日が、だんだんとふえてきた。「どうせ午前二、三時ごろまで勉強しなくちゃならぬのだから、とりたてて不都合でもあるまい」とタカをくくっていた当方も当方だった。親切心もあって文句ひとつ言うでもなく、またぞろ図書館に行って大きなソファーに寝そべって宿題などをやっていたわけだ。

 ある日、思い切って詰問してみた。

「アル。きみがそのように部屋を使うのはいっこうに差し支えないが、それにしてもほどほどにしてくれないか」

「僕(ぼく)も彼女も、きみがこの部屋にいたってちっとも気にしないよ。どうぞ自分の机で勉強してくれたまえ」

 アルは平然と言ったものだ。

 ある晩私は、保証人の家族から夕食に誘われた。授業が延びて約束の時間に遅刻しそうになったので、寮に飛んで帰ってきた。すると、もうちゃんと部屋にはカギが下りている。私はあいにく上等のものを着合わせていなかった。ドアをノックしてみたが、返事がない。あけようとするのだが、内からつっかえ棒でもしてあるのかビクともしない。時間もないのでそのまま諦(あきら)めて外に飛び出した。

 夜更(よふ)けに帰室してみたが、まだドアがあかないのだ。血が頭に一挙に駆け上った。私はドアを乱打した。

「ジャスト・ア・モーメント……」

 ドア越しにバタバタ走り回る足音がした。さらに激しくノックした。

「アイ・セッド・ジャスト・ア・モーメント!」

 威嚇(いかく)的なアルの声が怒鳴った。怒りが背すじを走り、頭のてっぺんを突き抜けた。私は拳(こぶし)を水平に突き出し、厚さ一センチのドアを打ち砕いた。

 思えば長い間使っていなかった。中学時代から訓練を積んだおかげか、これくらいの板ならわけもなかったのである。しかし、次に見た光景とその後に続く事件は、生涯(しようがい)忘れられない思い出になった。

 男はパンツに靴下(くつした)ばき。女はシーツに身をくるみ、ベッドで震えていた。アルは必死にドアの前に立ちはだかった。その目は瞋恚(しんい)の炎(ほむら)に燃えていた。日ごろ聴き馴(な)れない罵詈雑言(ばりぞうごん)が矢のように飛んできた。当方はアルの口元を凝っと睨(にら)みつけているだけだった。相手の口調は次第に萎(な)えしぼみ、吃(ども)り始めた。アルは身の震えを振り払うように――生唾(なまつば)を呑(の)み込みざま言った。

「決闘しよう!」

 得たりとばかりに当方も、口を開いた。

「オーケー、今すぐやろうぜ」

「ここでは女がいるからマズイ」

 と前置きしてアルは付け加えた。

「バーバラを送ってくるから待っておれ」

 バーバラはシーツをまきつけたままベッドを滑り下り、本立の裏にまわった。ゴソゴソしていたが、気が付いたときには、もうブラウスとスカートを身に着けていた。

「明日の午後三時クレスギー講堂の前」

 相手の言い残していった捨て科白(ぜりふ)を、私は反芻(はんすう)した。

 その晩、とうとうアルバートは戻(もど)ってこなかった。むろん、クレスギー講堂の前にも、姿を見せなかった。

以心伝心

 事件の二日あと、私は学生係のスピアー教授に呼び出された。アルバートが駆け込み訴えをやったのだ。

「図書館であまり長いこと寝暮らしていたもので、ついカーッとなって……」

 私はニッコリ笑いながら言った。

「ほう?」

 教授は初めて耳にしたとでもいいたそうな顔つきで、私の言い分に静かに耳を傾けた。話し終えると、スピアー教授は私の生いたちや家族のことを二、三詳しくききただした。尋ね終えると暫く考え込んでいたが、やおら口を開いた。

「今回の一件は、多分クラス(身分階層)の違いから起きたんじゃないかな」

「アメリカにクラスがないように、日本にだって今時そんなものは存在しませんよ」

 私はなかば冗談まじりに抗弁した。教授は委細かまわず話を続けた。

 

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