【無料お試し読み】 加算混合の発想 硬直思考からどう脱するか 2015年新装版

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本書では、『企業参謀』を皮切りに企業経営戦略家として評価を高めた大前氏が、経営の各論についてではなく、企業戦略に始まり「国際関係・社会問題」について、とより広く大きな問題について分析しています。

旧日本的な昇進制度・麻雀におけるボトルネック・オフィス街のレストランの効率化・オーケストラ指揮者のスリルと魅力・原子炉設計における安全性・外交交渉における謀略・友人宅に見るイギリス/日本の住宅事情…と多岐にわたるトピックを、プラトンから松尾芭蕉までを引用しながら、エッセイを思わせる筆致で分かりやすく論じます。


 『加算混合の発想 硬直思考からどう脱するか 2015年新装版』第Ⅰ部より



1 発見――成長の最大要因

心による発見を記述した芭蕉


よく見れば菜づな花さく夕べかな

山路来て何やらゆかしすみれ草

               芭蕉


 どういうわけか私は、受験時代に読んだ数多くの文学作品のなかで芭蕉の作品だけは、その紀行文や俳句のほとんどを覚えている。その後エンジニアとしてずっと文学とは縁のない生活をしてはいても、芭蕉の想い出だけは鮮烈である。

 なぜか? それは彼の作品が世の中にありふれた事柄の中から、内面的思索を通してみたときの、ふとした(心による)発見、を記述しているからではないかと思う。冒頭に掲げた作品も、「夕べ」や「すみれ草」というなんでもないものを「よく見れば」とふと気がついてみたり、「何やらゆかし」となつかしがってみる発見が新鮮な感覚で詠まれている。

 別な表現をすれば、芭蕉は文学というよりも、心の窓を通じて自然の観察をしている、と言ってもよい。この観察眼が、自然科学をやってきた人間にはたまらなくうれしいのである。近頃の文学はありそうもない虚構や好きだ嫌いだのの感情が溢れ、「観察」というものが退化していると思う。そういう点では、むしろコナン・ドイルの探偵物のほうが、同じ虚構でも森羅万象に対する観察は鋭い。


ありふれた領域に山積する疑問

「観察」するということが、なぜそれほど貴いのかといえば、それは知識や情報で勝負していないからである。情報化時代に入り、人々は与えられた情報を縦、横、斜めに料理して、胃の中にほうり込んでいる。しかし、そこから出てくる消化不良の食物は、どう見ても滋養にはなりそうにない。単なる情報の過不足で人間の価値が決まってくると思っているような人は、その収集に窮々として、到底物を観察する暇などはあるまい。

 有名なニュートンのリンゴの話も、見方によっては芭蕉のすみれ草と似ている。だれもが平素見ているリンゴ、平素見ている「落ちる」という現象、これらをみつめながら、ふと「リンゴが落ちる」という現象を心象の世界に発見するのである。

 つまりまったく独自の入力(インプット)がここで内面に取り込まれる。そこから先は、ニュートンのように純粋な自然科学者は「万物の真理」という消化器にほうり込み、万有引力の仮説として取り出す。芭蕉は十七文字の画用紙にその心象の世界をスケッチする。つまり出力(アウトプット)はまったく異なっているわけであるが、入力の仕方は非常に似ている。心の眼が開いていて、なんとはなしにある現象を気に留めているのである。

 この眼の閉じた人なら、つまらないもの、当たり前のもの、予想される事象、かつて見た現象のすべては、気にも留まらずにすいすいと通り過ぎてゆく。新しいもの、壮大なもの、奇抜なもの、いやらしいもの、にしか目を留めない。いわば正常な視覚は完全にマヒしていて、新たにメーターの振り切れるような刺激の入ったときだけ感応するようになってしまっている、使い古しの露出計のようなものだ。

 ところが、この世の中の難題はほとんどすべて、「ごくありふれた領域」で起こっている。ごくありふれた領域がまだ十分に理解されないために起こっている。

 富や貧乏、幸せ、悲しみ、葛藤、生産活動、破壊活動、愛と憎しみ――どれをとってもわれわれのまわりの、ごくありふれた現象である。これらが依然として十分に理解されていない、ということは、まだまだごくありふれた事象を観察して得られる知見の豊富なことを示唆している。

 心霊現象にとびつく前に、二人の人間がなぜ合意し、反対し合うのか、という現象の解明をしてもらいたい。企業集団の中でなぜ閥ができるのか、なぜある人には意思決定ができ、説得力がつくのか。なぜ人間には達成意欲があるのか、なぜある種の人は思考が飛躍するのか、どうしてこうも個人差があるのか、等々わからないことが山積している。しかも、これらがわかれば、現実には企業活動の向上に大いに応用できることは間違いない。

 これらの設問に関して、われわれがいかに矛盾した世界に住んでいるかは、今の教育制度と大会社の昇進のパターンを見れば明らかであろう。

 たとえば教育制度は明らかに能力差、個人差はないものという前提に立って組み立てられている。また学ぶべきもの、身につけなくてはいけないものは、義務教育レベルでは人によって差がない、という一大仮定が一般に受け容れられている。社会人になれば学校の先生、タクシーの運転手、芸術家、レストランの店員、会社員と千差万別なのであるが、これらの前提となる九年間にも及ぶ基礎教育は画一的でよい、とされている。

 私にとっては、これらに共通して役立つ学問は、道徳、倫理の類を別にすれば、現代版「読み、書き、算盤」と車の運転技術ぐらいのものである。しかし、現実には車の運転技術は二十五万円の教習所の彼方にあるし、集団生活における最低の約束事を教える倫理観の育成については、教育者の手に余ること、とされている。

 大会社の昇進パターンや給与制度もやはり、個人差は少ない、という前提のもとに組み立てられていて、入社したときから差を前提としていたり、十年以内には雲泥の差をつけることを目的につくられている欧米の制度とは、その発想を異にしている。しかし、入社して半年もたてば個人の資質の違いは明らかであるし、お茶のみ話しでは出てくる「今度来たA君は、アレどうしようもないな」というホンネは、制度的には十年以上も関知せず、ということになる。


成長の機会を生み出す発見

 ごくありふれた領域に、解明されずに残っていることが、このように山積しているからこそ、おや、何故だろう、と思う心が貴いのだと思う。逆にこうした事象をふつうのこと、あたりまえのこと、としてしかとらえない眼には「発見」ということなどあり得ない。

 自然界の事象や人間の営みをこのような心象の眼で見つづけていると、自然と観察が鋭くなり、今度は、加工されたデータや情報に対しても同じように虚心坦懐に臨むことができるようになる。分析や数字の羅列からある意味を引き出し、おや? と思うようになる。同じ心構えで、このように会社の業務、市場の動向、競争相手の動き、社会構造の変化、などがふと意味をもつようになってくる。これが発見の心であって、心眼の開いた人だけに見える世界である。

 同じ分析、同じ表やグラフを見ても、ある人は某社の外注比率が上がっている、という読み方をし、またある人は、某社は身軽になっている……不況が来たら当社は苦戦するぞ、というところまで一気に読んでしまう。こうして気がつき、対策を打てるようになってはじめて、「発見」が役に立つようになる。芭蕉の発見は心和むものであったが、企業における発見は、少なくとも企業目的成就に役立たなくては意味がない。発見ごっこやオリンピックをやっているのではないのだから。

 経営というと、すぐにドロドロしたものを想い浮かべ、合理性とかタテマエでは割り切れない、という諦観に立つ人が多い。しかし、過去二十年ぐらいのわが国の企業の事業展開のなかで、大きな成功を収めているものは、ほとんどが経営者のある種の発見、しかも世の中の流れを見究め、自社、競争相手の強さ、弱さを見抜いて、「ふとしたきっかけ」からつかんだ事象の発見を実践に移したものが多い。たとえば――

・YKKのアルミサッシへの垂直統合的参入

・ヤマハのエレクトーンからアンプ、ステレオへの展開。またヤマハ音楽教室というユーザープル戦略

・スカイラークの郊外レストラン展開

・松下のオーディオにおけるTECHNICSブランドの新設

・キヤノンの事務機への全面参入。およびAE1の広告宣伝活動

・トヨタの新生産方式

・日本電気のLSIや通信を武器とした情報基幹産業への目覚め

・ペンテルの「ボールペんてる」とそれにつづく国際化

・服部時計店のグループ内競合による技術革新の推進

・西武の渋谷地区における攻勢

 こうした例のいずれもが、特定の個人またはせいぜい数人の人々により起案され、青(ブルー)焼き(プリント)が描かれてきていることを考えると、上意下達、ボトムアップ、稟議云々という日本株式会社のイメージとはまったく異なる、ダイナミックで個性的な戦後の日本企業群の典型がそこに見出される。

 いずれも個人の創意と工夫、決断と実践の軌跡が明らかであり、しかも他人には気のつかなかった、世の中の動きを巧みにとらえた「発見」がそこには見られる。一見、硬直化の進行するかに見える世の中ではあっても、企業の自由な行動が保証されている限りにおいては、物事を自らの眼で見、自らの心象の世界でとらえることのできる人々をかかえた会社には、いくらでも成長の機会が転がっている、と言うことができよう。


2 置換――自由競争の醍醐味

竹トンボがプラスチック・トンボに

 小さい頃、近くの竹屋さんで青竹を買ってきて竹馬をつくるのが好きだった。小学校上級生の全盛期には、地上一メートル五〇もの高さにケタを上げては徘徊したものである。そこで六歳になる私の息子にも同じような経験をさせようと捜しに出かけたが、手頃なのを売っていない。だいいち、昔の竹屋さんがプラスチックの〝竹〟を売っているではないか! まさか鉄パイプで竹馬をつくるわけにもいかないので、今度山にでも行くときまでこの懐古趣味はお預け、となった。竹屋さんはプラスチックの竹とナイロンのロープに置き換えられてしまったのだ。

 竹トンボにしても同じである。私は小刀で竹片から竹トンボをつくるのが得意だったが、息子は近所のおもちゃ屋からプラスチックのできあいの竹トンボを買ってくる。そのうちに竹トンボということばが消えて、ハンドヘリコプターなどと呼ばれ出す日も近いのではないかと思われる。

 この二、三十年に、実に多くのものが日常品から消え去った。企業戦略の立案においては、この現象を「置換」と呼んでいる。製品のライフサイクルを考えるとき、同じ目的をもった他のものに置き換えられる、というのは、重要な意味をもっているからである。われわれの身の回りには常に置換が起こっており、一刻も油断がならない。ジャングルに住む動物にも似た警戒心が必要である。

 置換の特徴は、必ずしも取って替わる側と替わられる側がはっきりしていないところであろう。土俵が違う、といってもよい。同じような商品相互の市場占有率の変化には敏感な会社でも、置換の脅威には無頓着な場合もめずらしくない。

 旅行カバンにキャスターがついて便利になった。ガラガラと引っ張って歩けばよくなったからである。主要駅やターミナルには、階段に替わってエスカレーターがついた。この二つの現象が赤帽を置換したのである。ひとたび赤帽が少なくなると、もはやこちらも赤帽をあてにしなくなるから、この置換現象は歯止めがきかない。すべての社会的システムが「赤帽なしですむ」ように、加速度的につくりかえられてゆくのである。もう一つ、赤帽の方でも仕事が少なくなるから、単価を上げて収入を確保しようとする。これがまた客離れを加速する。この離反現象も置換に特有の症状である。近頃のタクシーや国鉄の値上げも、これと似た様相を呈するようになってきた。


置換を加速する人件費の上昇

 国鉄と言えば、これもまた飛行機との代替関係にある。人件費の上昇によって「時間」が高価になれば、鉄道はジェット機に置換される。時間に価値がなければ、より遅くて安価な交通の手段が選ばれる。

 人件費の上昇は、人間を多くの職種から追い出してしまった。ブラジルではボーリングのピンを並べるのに人手を使っているところがある。人は故障しないし、安い、という考え方である。一方、アメリカのほとんどのゴルフ場では、キャディは電気カートに置換されてしまった。また、大会社の重役といえども運転手はもらえない。車は会社で手当てされても、運転は自分でやるのが普通である。

 一方、日本では鉄道の出札係はほとんどが券売機に置換されたが、アメリカや欧州ではこれから、という段階である。銀行のキャッシュカードのおかげで、美人を揃えているかどうかに関係なく、預金先を決められるようになった。一抹の淋しさを覚えるが、同時にあのカウンターで金を引き出すたびにいやな顔をされるような後ろめたさを感じなくてすむ。そういえば、ここ一、二年、銀行のカウンターの前に行った記憶がない。


テーラーの消滅

 近くの商店街にたくさんあったテーラーも、なくなってしまった。今残っているのは一軒だけだが、まわりの店が店舗を改装したのに、この店だけは昔のままで、モダンな感じのスーツなど、とてもそこであつらえる気はしない。注文服は既成服に置換されたのである。

 もともと人件費が安く、かつ仕立屋さんが多かったころには、服地よりも仕立代のほうが安かった。これが逆転してから久しい。既成服の隆盛はオンワードやダーバンの出現によるところが大きい。注文服が変動費事業であるのにくらべて、既成服は「在庫」という固定費事業である。既成服事業の難しさは、その品揃えにある。すべての潜在顧客のニーズに合った柄とサイズを揃えるためには膨大な在庫、すなわち資金がいる。せっかく客が店に足を運んでも、気に入ったものがなければ売れない。だから、ある程度以上の固定費を思い切って投じた後でなければ、商売は成り立たないのである。月に十着作って売れば生計の成り立つママパパテーラーとは、まったく仕組みが異なるのである。

 だから巨大資本が既成服を扱うようになって、急速に弱小テーラーは置換されていった。しかもこの注文服市場縮退の過程で、仕立代は途方もなく値上がりし、結局自らの衰退を加速してしまった。これからは個性の時代であるから、イージーオーダーのようなものは戦略によっては隆盛をみることも可能であろうが、これとてもコンピュータや自動機械を使える巨大資本の土俵に移されたと言ってよいだろう。


競争が生む創造性

 扇風機がクーラーに置き換わり、石油ストーブがクリーンヒーターに置換される世の中は、旧来の製品を作っている人にとっては安眠もできない。しかし企業家にとっては、これこそ自由社会の醍醐味で、事業拡大の機会は石川五右衛門の泥棒の機会と同じぐらい、つきることがない、と言うこともできる。

 置換には必ず推進役があり、駆動力がある。自由経済の本当の良さは、個々の人間の「もうけたい」「楽をしたい」「有名になりたい」等々の願望が、既成概念の打破に使われることであろう。置換を計画しても、アイデアはそう計画的に出てこない。むしろ既存の事業を成りゆきにまかせて陶汰させるときにこそ、人間の創造性が解放されるのであろう。ますます政府頼みになってきたアメリカで独創的な新製品が出にくくなり、企業間の自由競争の激化した日本に技術革新が移ってきたのも、こうしたことと無縁ではない。脱硬直の第一歩が個人を思想的呪咀から解放することである、ということは、このような点からも理解されよう。


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