【無料お試し読み】 なぜ私が200坪のテーマパークのような小児歯科をつくったのか

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子どもがワクワク楽しい気分で訪れる「テーマパークのような歯医者さん」をコンセプトに、2011年鹿児島市にオープンした小児歯科医院「ワハハよしどめキッズデンタルランド」。この、国内で類を見ない先進的な歯科クリニックを運営する医療法人翔優会 よしどめ歯科の理事長である著者が、当院の理念やポリシー、オープンまでの道のり、これからの小児歯科医療について語ります。


『なぜ私が200坪のテーマパークのような小児歯科をつくったのか』第1章より


靴職人の家に生まれて

 私は、鹿児島市内の中心地「天文館」という繁華街で、靴職人の父の長男として生まれました。父は天文館で60年間靴屋を営んでいるのですが、80歳を越えた今でもまだ元気に頑張っていて、夜中の2時や3時までお店を開けています。

 今でも忘れられない、父が一生懸命靴を作っている姿。来る日も来る日もトントントントン、そういう父の背中をずっと見て育ちました。ときにはその音がうるさくて眠れないこともありましたが、おかげで夜遅くまで本を読むことが多かったように記憶しています。

 貧乏だったため、子どものころは家にテレビも冷蔵庫もありませんでした。学校で友だちがウルトラマンや鉄腕アトムの話をしていても私は観たことがありません。けれど恥ずかしくて誰にも言えず、「観た観た」と嘘をついてみんなに話を合わせていました。そんな貧乏な家庭環境に嫌気がさし、中学に入るころからいろいろと悪さをするなど、当時はかなりやんちゃな子どもでした。

 高校は、鹿児島ラ・サールに次ぐ県内でもトップクラスの進学校に入ったのですが、やんちゃ振りは変わらず、謹慎処分を食らったりしました。でも、そんな私にも担任の先生は暖かく接してくれて、いろいろな励ましを受けました。恩師には本当に恵まれていました。

 紆余曲折を経て、最終的に歯医者を目指すことになるのですが、当時はとくに歯医者が好きなわけではありませんでした。他にもいろいろなりたいものがあった中で、なぜ歯医者の道を選んだのかというと、やはり父の影響が大きかったと感じています。靴職人の父の姿をずっと見続けてきて、「自分も何か手に職をつけたい」「自分で手を動かす職人的な仕事がしたい」と考えるようになりました。そこで考えついたのが歯医者だったのです。なぜだか歯医者しかないと決意していました。貧しい家庭に育ったため、歯医者さん=優雅な生活をしている人、という単純なイメージも持っていたのかも知れません。今でこそ、「自分にとって歯医者は天職だ」と確信していますが、当時はどこか漠然とした考えしかありませんでした。そんな経緯で広島大学の歯学部に入学します。

 晴れて大学に入ったものの、やんちゃな性格は変わりませんでした。講義にはあまり出ず、試験もほとんど受けない。お金もないので、アルバイトばかりしていたためか、留年の末に28歳でようやく卒業。鹿児島に帰郷し、大学の先輩が院長をしている歯科医院で働かせてもらうことになったのです。

 ところが相変わらず不真面目で、院長の目を盗んでさぼってばかり。トイレでタバコを吸っているのがばれたり、仕事そっちのけで仲間と遊びまわったり、不真面目な生活を送っていました。その結果、恥ずかしい話ですが、1年ほどでその医院をクビになってしまったのです。そんな姿勢であればクビになるのは当前です。自業自得なのですが、明日からどうしたらいいのか途方に暮れました。


人生の転機到来

 大学の先輩の医院を辞めたまさにその日、ある方の紹介で鹿児島市の大明丘(だいみょうがおか)という丘の上に立つ、小さな歯科医院を訪ねました。その医院が歯科医師を探していたのです。運よくそこの院長先生に気に入っていただき、驚いたことに翌日からその医院で働くことになったのです。70代のおじいさんとおばあさんが夫婦でやっている「山内歯科医院」という古いクリニック。この医院こそが、私の歯科医師人生の出発地点となる歯科医院だったのです。

 その医院は当時チェアがたったの2台。おじいさんが院長先生で、おばあさんが受付。お孫さん2人が歯科助手をされている、ファミリーで細々と営んでいる医院でした。

 とても狭い医院で、待合室ではみんなタバコを吸っていて、煙がモクモク。院長室は2畳くらいのスペースでしたが、院長先生もタバコを吸われるし、当時は私も吸っていました(ちなみに、長女の出産とともに止めました)。チェアは2台しか置かれていないのに、狭いため歩くとギリギリ。そうした、まるで野戦病院のような環境に慣れるまでにしばらく時間がかかりました。

 患者さんは1日たったの7~8人でしたが、私は大学を卒業してまだ1年。しかもほとんど真面目に歯科医師としての勉強をしてこなかった落ちこぼれだったので、当時は本当に何もできませんでした。でも、幸いといっていいのか、患者さんが少なかったために勉強する時間はたっぷりとあったのです。そこで院長先生に少しずつ教えていただきながら、歯科医師としての技術を高めていきました。

 そのうち、1日7~8人しかいなかった患者さんが次第に増えていき、1日30~40人くらい来院されるようになりました。理由はよく分かりませんが、技術はなくてもとにかく明るく親身に患者さんに接するように心がけていたので、患者さんも、そんな私を慕ってくれるようになったのかもしれません。

 私が働き始めてから半年後のこと、これでこの医院も順調に行くだろうと思っていた矢先に、なんと院長先生が突然亡くなってしまったのです。路頭に迷いそうになっていた私を快く雇っていただき、未熟な私を熱心に指導いただいた恩人だっただけに、大変にショックを受けました。

 そんな状況とはいえ、医院をこのまま閉じるわけにもいかず、残された奥様の強い希望もあり、急きょ私が院長として山内歯科医院を引き継ぐことになったのです。医院名も「よしどめ歯科」と変え、新たなスタートを切ったのが、30歳のときでした。

 あれから24年。院長先生の命日には毎年欠かすことなくお墓参りに行き、大好きだったタバコに火をつけてお供えしています。奥様は90歳を越えてまだまだお元気で、お墓参りの後、院長先生の御仏壇に手を合わせるためご自宅にお伺いし、奥様にご挨拶するのも毎年の習慣にしています。今の私があるのは、本当にあの院長先生と奥様のおかげだと、心から感謝しています。

よしどめ歯科、開業!

 こうして今から24年前の1991年、「よしどめ歯科」は誕生したのです。

 患者さんは相変わらず増える一方だったため、設備をもう少し充実させなければと考えた私は、借金をして2台だったチェアを3台に増やし、レントゲンの機械を入れ、内装をきれいにしました。するとさらに患者さんは増え、ついには1日100人を超える日も出てくるようになりました。

 患者さんが30~40人に増えたときと同様に、患者さんへの接し方、コミュニケーションにはさらに気を配りました。歯医者に限らず医療従事者というのは、技術以前に患者さんとの信頼関係を築くことが最も重要です。歯の治療には痛みがともなうことも少なくありません。しかし信頼関係が築かれると、不思議とある程度の痛みは我慢できます。痛みに対する最低の刺激量、つまり域値が、信頼関係によって違ってくるからです。そのため私はとにかく和気あいあいと、患者さんと気さくに冗談話をし、どの患者さんに対しても親身に、一生懸命接し続けました。患者さんに人気だったのも、おそらく技術というより「この歯医者さんは痛くないよ」「楽しいよ」という印象を持たれていたからだと思います。

 今考えれば、当時の私はまだ歯科医師としての技術は恥ずかしいくらい未熟だったため、アルバイトの歯科医師を2人雇い、彼らの治療の仕方を見て勉強する、というありさまでした。それでも私は院長ですから、無理やりにでも勉強しなければいけません。当時は死にもの狂いで勉強しました。その甲斐あってか短期間で一気に腕が上がり、ますます患者さんが増えていったのです。運もよかったと思いますが、このときが私の人生の最大の転機だったと思います。大学の先輩の歯科医院をクビになってから短期間の間にさまざまな変化が起こった、まさに怒涛の1年でした。

 チェア3台で3~4年の間、地道に頑張っていたある日、次なる転機が訪れます。道を隔てた医院の前にある広めの土地が売りに出されたのです。周囲からは、せっかくだから広い土地に移ったらどうかと勧められましたが、当初私はあまり気が進みませんでした。しかし、チェア3台だけで1日100人以上の患者さんを診るという常識はずれな状況を何とかしなければとの思いから、その土地を買って医院を移転し新規開業を決意したのです。それまでは待合室に4~5人しか座れず、廊下や外にイスを置いて待っているような状態。そこで新しい医院では待合室を広くしました。この新しい医院こそが、現在の「よしどめ歯科 大明丘」なのです。その後は増築も行い、桜島や遠く霧島山、開聞岳まで見える、ガラス張りの展望台のような治療室も作りました。

 この移転を機に、チェアを4台に増やしましたが、当時私は、この「4台」がベストで理想的な数だと思っていました。なぜなら、チェア4台を「田」の字のような配列に並べて治療すれば、治療中における患者さんとの話、スタッフとの話、そのすべてがみんなに伝えられるからです。つまり、コミュニケーションのしやすい井戸端のような、アットホームな医院を目指していたのですが、一方で、自分の歯科医師としての器的にもチェア4台が限界だと感じていた側面もあります。当時、その建物を手がけてくれた建築家からも「将来、さらに患者さんが増えてもっとチェアを増やそうとなったときを考えて設計したほうがいいですよ」と助言されましたが、私はかたくなに「いや、一生4台でいく」と言っていました。そのときはまだ、歯科医院長として度量がなさ過ぎたのかもしれません。

 当時私はプライベートでもコミュニケーション、人とのつながりを大切にするよう心がけていました。中でも、最も力を入れていたのがゴルフです。やったことのある方ならご存知かと思いますが、ゴルフは精神的、肉体的な鍛錬につながるだけでなく、人とのコミュニケーションを深める上で非常に有効なスポーツです。実際、ゴルフを通じてさまざまな方との出会いがあり、そうした出会いが私の人生を後押ししてくれた気がします。ちなみに、一生懸命ゴルフを続けた結果、気がつくとハンデ3となり、おかげさまで「知覧カントリークラブ・チャンピオン」のトロフィーを2度いただきました。

 

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